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『武蔵野』の古地図 その12

『東都近郊図』(文政8・1825年)における「〇武蔵野」とその周囲のおおまかな比定が済んだところで、当該部の改版との異同を見てみよう。
以下は文政13・1830年版、国立国会図書館本の一部である。

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一見して大きく変わったところはないが、ところどころに新しく付け加えられた情報がある。
まず左手、「所沢村」脇の添付情報は「馬次」だけだったのが「三八ノ日市」を加え、その左隣「上新井」と「北野」村の間の鳥居(神社記号)の「式内 小手指明神」は「式内 物部神社祭礼二月廿一日 北野天神廿五日神事」と改定増補している。
そうして「〇武蔵野」付近では「北永井」村の北、「大井宿」村の西に「〇大家カ原」が新規登場しているのである。
「北永井」は現三芳町の北東部、「大井」はふじみ野市の南部の大字で、両者は西と東に隣接している。
刊記の右に示した記号凡例(以下)では、〇印は村名(小判型囲み)や宿町(方形囲み)ではなく名所古跡を示す。

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この「〇大家カ原」(おほやがはら)は『万葉集』巻14、東歌3378読人不詳「入間道(いりまぢ)の大家が原の伊波為都良(イハヰツラ)引かば奴流奴流(ぬるぬる)吾にな絶えそね」という擬態語「ぬるぬる」で知られる歌に由来するのだろう。
「イハヰツラ」の「ツラ」は「蔓」(つる)状に連続した植物の謂いで、スベリヒユやミズハコベまたはネナシカズラのことか、などと定説がないようだ。しかし同東歌3416には「上毛野可保夜(かほや)が沼の伊波為都良(イハヰツラ)引かばぬれつつ吾(あ)をな絶えそね」とあるから、水生植物ミズハコベに分があるようにみえる。ただ、ミズハコベは水田をおもに繁殖地とするも無用の雑草でヌルヌルでもなく、歌意としても適合し難い。

1352の作者不詳歌に「吾情(わがこころ)湯谷絶谷(ゆたにたゆたに)浮蓴(ウキヌナハ)辺(へ)にも奥(おき)にも 寄りかつましじ」とあって、このウキヌナハはジュンサイに比定されている。ジュンサイならば古来中国でも日本でも知られたヌルヌル植物で、手繰って採集する食材でもある。
そもそもヌナハ(ジュンサイ)は、隼人の一族長の娘にしてロングヘア―美女髪長比売(宮崎県都城市高城町にブロンズ像あり)の「喚(め)し上げ」をめぐり、『古事記』に次のように登場していた。「水渟(たま)る 依網(よさみ)の池の 堰杙(ゐぐひ)打ちが さしける知(し)らに 蓴(ヌナハ)繰り 延(は)へけく知らに 我が心しぞ いやをこにして 今ぞ悔しき」(中巻・応神天皇)。
美女はさておき、また現大阪府にあったという広大な溜池依網池も別にして、ジュンサイはそのかみ文字通り人口に膾炙していたことはたしかである。

東国と西国でなくとも、また植物でなくとも、日本列島内の異称例は少なくない。ヌナハ(沼縄)とイハヰ蔓がともにジュンサイを指した可能性は大きい。
ジュンサイにちなむ場所は、関東では下総は市川市のじゅん菜池緑地が著名だが、武蔵国にもジュンサイ池公園は現存していて、それは東京は瑞穂町の箱根ケ崎にある。19世紀前半文化文政期に編まれた『新編武蔵風土記稿』は、豊島郡上石神井村の三宝寺池の中に「多く蓴菜を生す」と記している。
とりわけ食用および有用植物の拡散と消滅には、人間活動とその変容が大きく影響する。元来湖沼や湿地が遍在し、アキツ(トンボ)島とも称された日本列島にあっては、1000年前と言わずともジュンサイ池もジュンサイもごく普通に見ることができたであろう。

さて「引かばぬるぬる」の「大家が原」だが、その歌碑は現在、狭山市(市役所北庭園)、入間郡越生町(生越町図書館前)、日高市(JAいるま野高萩南農村研修センター直売所駐車場)、坂戸市(東京国際大学グラウンド入口)と、埼玉県内都合4ヶ所に存在する。
これらはいずれも旧入間郡ではあるものの、古地図の記載場所からは所沢を越えてはるか西側、かつ所在地は我田引水・牽強付会で、ばらけすぎている。
そういえば「日本ロケット発祥の地」碑も国分寺駅北口と西荻窪駅北、千葉駅北口と秋田県由利郡岩城町と極端にばらけて計4ヶ所にあるが、それとこれとは事情が違うと思いつつ『現代短歌分類辞典』(新装版第55巻、1995年)276ページから284ページにかかる「武蔵野」の項約280首を頭から追っていたところ、犬も歩けば棒にあたる、戦後歌壇の最長老にして宮中歌会選者・文化勲章受章者、1990年に100歳で卒した土屋文明の「入間道の大家が原の古へを尋ね来て武蔵野の秋にあへるかも」に目がとまった。そうして「大家が原」と「武蔵野」をめぐって土屋が残した論考に至り、得るところすくなくなかったのである。それについては次回以降あらたて触れることにしたい。

ここでもう一つ、上掲改版図の範囲で新たに付け加わった事項を挙げておこう。
左下、「館村」に添えた「〇立野の牧ト云ヘルハ此辺ナルヘシ」という書き込みである。
これは文化12・1815年の序をもつ斎藤鶴磯の『武蔵野話』(むさしのはなし)中の推論「今 舘村、引又村の辺、水浜にして馬を牧(かふ)地勢なり。舘村は立野の駒立の馬など古歌に詠みし地なるべし」に影響された結果とみられる。大字「館」は現在の志木市西端で柳瀬川右岸の地、新座市、三芳町、富士見市と境を接する。地勢上は牧を営むに適地であったかも知れない。しかしそこが古代の牧であったという確証も傍証もなく、ひとり斎藤鶴磯が説くところにすぎないのである。

なお筆者が最初に目にした弘化4・1847年版の『東都近郊図』は、内容において文政13・1830年の改版図とほとんど変わるところがない。目につくのは道と郡名の枠内が赤く着色されたこと、また「〇武蔵野」の周辺では「大和田宿」の脇付「馬次」が外されていることくらいである。

江戸町人文化が花ひらいたと言われる文化文政時代には、武士百姓を問わず旧事考証が盛んだったようだ。しかし当時は地図そのものがおおらかであったのに似て、旧跡探勝も一般にはイノセントな流儀が流通していたのだろう。

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