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『武蔵野』の古地図 その11

『武蔵野地名考』にまつわる考証が長くなったが、地図にもどって「武蔵野ノ跡ハ今纔ニ入間郡ニ残レリ」とした『東都近郊図』の入間郡のあたりを見てみることにしよう。
以下は聖心女子大学図書館所蔵本(文政8・1825年)の一部である。

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ほぼ中央「入間郡」の左手に「〇武蔵野」、右手に「〇堀兼井」、さらに「所沢村」とある。
おおむね上が北(地図右下の簡易羅針図によると北北西に近い)であるから、武蔵野は所沢の東側に位置していることになる。
村名などの文字表記が逆立ちしているのは、地図を畳の上に広げて側四方から見ることを前提としているためであるが、ただしここにも見られるように、刊記や一部の書き込みは一定の方向をもつ。刊記等のかぎりでは、この図は北が上である。
さて、個々の村名は後回しとして、まずは1本の河流、それから3本の道を同定していこう。

川は狭山丘陵から流れ出、所沢市(現埼玉県)と東村山市・清瀬市(現東京都)をほぼ分界しながら新河岸川に注ぐ、一級河川の柳瀬川である。
左下「小川新田」を通る道は青梅街道、柳瀬川をはさんだ「南秋津」と「北秋津」を通り所沢から北上するのは秩父道、「大和田宿」と「大井宿」を結ぶのは旧鎌倉街道上道の枝道で川越に通じる経路である。
次に、秩父道と川越道、および柳瀬川の内側で「〇武蔵野」を囲む地名をチェックしてみる。
左上「堀兼井」から反時計回りに、「下新井」「上安松」(「〇大榎アリ十抱余」)「下安松」「日比田」「本郷」「城村」(「〇古城跡」)「坂下」「亀ヶ谷」「冨村」(「ムサシノ地蔵」)「北永井」である。

これらのうち、もっとも「〇武蔵野」の至近に描かれているのは、「冨村」と「北永井」の西、仏寺を示す家マーク付きの「ムサシノ地蔵」である。
この地蔵は、現埼玉県入間郡三芳町上富(かみとめ)1501‐1に所在する木ノ宮地蔵堂(安永6・1777年再建)およびその奥の院の石地蔵(寛永19・1642年寄進)に比定できる。
北西に隣接する臨済宗三富山多福寺は、元禄9・1696年柳沢吉保が上富地蔵林の中に建立したとされるから、地蔵堂のほうが本家である。
また、地蔵堂から西南約500mにある所沢市中富(なかとみ)の真言宗多聞院は同時期に中富村の鎮守も兼ねた毘沙門天社として開基したが、近代初頭に神仏分離されたと言う。

地図における「〇武蔵野」の東はこれでよいとして、反対側「入間郡」の文字を挟んでかなり位置が離れるものの西隣は「〇堀兼井」である。
堀兼井は地下水位の低い武蔵野台地の段丘面に見られるまいまいず井戸の一種で、いくつかの例が残されているが、地図記載のそれには現在狭山市堀兼2221に神社を伴って所在するものに比定してよいだろう。
この神社は日本武尊の伝説を唱えているが、さかのぼれる確かなことがらとしては慶安3・1650年に川越城主松平伊豆守信綱が長谷川源右衛門に命じて社殿を建立したと狭山市の説明板ある通りで、ここは江戸も初期あるいはそれ以前から「旧跡」とされていたようだ。
「〇武蔵野」の東西位置は、現在の狭山市堀兼2221と三芳町上富1501‐1の中間からかなり東に、そしてやや南に偏したところと目することができるのである。

一方の南北位置であるが、北は図端で記載していないため南を探る以外にない。
柳瀬川の左岸に羅列された「上新井」から「久米」「下新井」「上安松」「下安松」「日比田」「本郷」そして「亀ヶ谷」の村々はすべて現所沢市の大字名であり、「城村」と「坂下」も同様だが、表記は現在では「城」「坂之下」とする。これらの地名の位置関係は刊記の「断わり」にもありまた図端のせいもあろうが、現在の地図と比べるとかなりおおまかで、かつデフォルメされていることがわかる。
「地蔵堂」の位置などから判断すると、「〇武蔵野」の南には「本郷」や「城村」ではなく、「下新井」が記載されていなければならないのである。
緻密な測量過程を経ることのない近世地図すなわち絵図はこのように一定の限界をもつのであるが、それでもなお文字史料の及び得ない表現性と示唆性に富むと言わなければならない。

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