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小網代谷戸 その1

京浜急行久里浜線の終点三崎口からバスで2停留所目。
下車して目指すは、三浦半島南西端に深く陥入した小網代湾。

台地の引橋面から西に下ればすぐに谷頭域に至る旧小網代村の谷戸は、今日では類稀な〈森と干潟がつながっ〉た「小網代の森」として知られる。
たしかに小河川(浦の川)ではあっても、巨大都市近郊の一流域がそっくり都市化を免れた場所はきわめて珍しい。だから「森」なのだろうが、地形学的には標高差数十メートルにおよぶ「台地の開析谷」であって、しかも隆起地帯のそれであることは意識されたほうがよい。そうしてこのような地形は、関東地方では一般に「谷戸」と言うのである。

近年この谷戸はおもに自然保護もしくは生物多様性の観点から、四半世紀以上にわたって、水源エリアなどの保全とともに、藪の伐開および湿地回復などの手段が講じられてきた。
さらには木道や説明板の設置、そして水洗トイレまで整備された結果、土日の昼前後ともなればカジュアルでカラフルな装いをした老若男女でにぎわい、都心の自然公園に見紛う光景も現出することがある。
この人気ぶりには書籍や雑誌、観光案内リーフレット、テレビ、インターネット等での喧伝に加え、京急の「みさきまぐろきっぷ」を使える一画であることも寄与しているのであろう。
幸いなことにいまは雨季であるため、土日でも晴れてさえいなければ人影はまばらで、比較的静かな谷戸の谷底歩きを楽しむことができる。
しかしながらこの谷戸巡検でもっとも留意すべきは、多雨による土砂災害や地震・津波の予期せぬ襲来であって、出かけるにあたっては、鉄道などの交通機関が不通となる事態に対しても、幾何かの想定と準備が必要となる。

さて小網代谷戸を知るには、まずは70年以上前の旧版地形図を参照することをお奨めしたい。
三浦半島は旧海軍の一大拠点横須賀を擁し、要塞地帯として地形図が一般に公刊されることはなかった。そのため、戦後間もなく刊行された2万5000分の1地形図が出発点となる。けだし「情報公開」は、列島国家にあっては「体制」の崩壊後にはじめてその一部が実現するもののようだ。
ともかくもこのエリアについては、1947年(昭和22)資料修正「浦賀」「秋谷」「金田」「三浦三崎」の4図幅を接合して参照するのが適切なのだが、ここではとりあえず中心となる「金田」図の一部を複写拡大し、色鉛筆で水田と川筋・溜池および県道に着色、また一部ライン等を描き入れたものを以下に掲げることとする。

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ところで、地形図の拡大利用は、従来原則タブーであった。
なぜならば地図の編集プロセスにおいては、許される範囲の「転位」や「総描」といった表現上の処理が行われるのが常で、拡大すれば許容範囲にあったズレも拡大され位置の誤差が増幅する結果、「地図の間違い」といった誤認が生じるおそれがあるからである。しかし拡大してはじめて利用可能となる、あるいは気づくことのできる記載情報量ははるかに大きいのである。旧地形の探求には、旧版地形図の積極的拡大利用を推奨したい。
そうして拡大にあたっては、たとえば2万5000分の1の場合は大胆に250%にして1万分の1とするなどの工夫が望ましい。またスケールバーを同時に拡大しておき、図に添える配慮もあれば上出来であろう。

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