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洗足池 その2

旧中原街道「桜坂」の復習は、以下の地図から始まる。

1881年(明治14)5月測図の2万分の1地形図「東京府武蔵国荏原郡下池上村」(所謂迅速測図原図)の一部である。

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図の右上、北東から南西につづくのは中原街道で、段丘崖を下ってからすぐ西に折れ丸子の渡しで多摩川を渡河する。段丘下、中原街道沿と坂下道の交わる付近にある「東光寺」は、「東光院」として立派に現存する。また坂下道に沿って、現在では東急多摩川線が通り、東光院の南には沼部駅が存在(1923年目蒲線丸子停留所として開業)する。

中原街道は段丘崖を上下する際、傾斜を低減するため崖端の侵食谷を利用したように見える。その谷状地形が人工によるものであるか、自然な開析谷を利用したものかは措くとして、この時期の坂道(現「桜坂」)の傾斜をしらべるために、地形図にスケールをあて、ご覧のように鉛筆で書き込みをしている。

縮尺2万分の1地図上で、中原街道を横切る10メートルと20メートルの等高線の間隔は約6ミリメートルである。すなわち水平距離約120メートルが10メートルの標高差をもっていることになる。
これらの数値から求められる平均傾斜角は約4.7度で、道路縦断勾配としては8.3%に相当する。8%は現道路構造令によれば、設計速度時速30キロメートルの急勾配である。

しかし当時は車と言えばもっぱら荷車や人力車、舗装されているわけでもなく、復路は重量ある下肥を積んだものが多かったのだから、とりわけ雨季の泥濘坂を上下する難渋は筆舌につくし難いものがあったろう。

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