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鎌倉河岸

「腑に落ちない」ことはひとりひとり異なるだろうし、その持ち数もそれぞれだろう。
世の中腑に落ちないことばかり、と言ってしまえば「左様」で会話は途切れる。

面映ゆい、といった皮膚感覚からはじまって、歯が浮く、及び腰、腹芸・・・と数ある現代日本身体語のなかでも「腑」は身体奥部に属し、「納得できない」といったシリアスな表現の近縁にある。

さて、今回「腑に落ちない」のは以下のような記事である。

本橋左岸下流側に、江戸城建設の際に相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり、鎌倉河岸と呼ばれた。付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ[1]、本橋も鎌倉橋と称するようになった。現在の橋は関東大震災の復興事業で架け替えられたコンクリート製アーチ橋で、1929年(昭和4年)4月25日に完成した。欄干には、1944年11月に米軍による爆撃と機銃掃射を受けた際の銃弾の跡が残っている。

以上はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉橋(日本橋川)の「歴史」からの部分引用である(20190605)。
中頃の「震災復興事業で架け替えられ」のところは論外(震災復興事業で創設)として、最後「銃弾の跡」はそれとおぼしきところを下の写真に撮ってきたので、そこは合格。

img_0638.jpg

本来は警視庁鑑識課の領分だろうが、この弾痕を計測して射出角度とその方向、衝撃力を算出する人はいないだろうかとも思うが、いま俎上に載せている問題は、引用文の頭から[1]の前までである。

まず「江戸城建設」だが、よく知られた江戸城建設者には太田道灌と徳川家康の二人いて、その建設時期には150年以上の懸隔がある。
どちらの事績を指しているのかあるいは両方を言うのか、この文では不明で、wikipediaの表現としては失格である。

[1]の出典にあたると「家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ・・・」(千代田区・町名由来板:神田鎌倉町・鎌倉河岸)とあるから、江戸時代初期のことらしい。

いずれにしても、「鎌倉橋」という名称が成立するためには、①鎌倉河岸→②鎌倉町→③鎌倉橋というプロセスが存在したと言う。
しかしそもそもの「鎌倉河岸」の地名由来は、千代田区サイトでは「鎌倉から来た材木商たち」、wikipedia「鎌倉橋」の項執筆者によれば「鎌倉から運んだ木材や石材」にちなむとしており、人間と木石では中身が大分異なるのである。つまりwikipediaの書き手が典拠を[1]以外に挙げ得ないとすれば、この記事は根本的なところで捏造を行ったことになる。

「鎌倉石」は凝灰岩質砂岩、軟質で加工しやすいためかまど石(竈・へっつい)などによく用いられた。
これに対し、安山岩の「伊豆石」は硬質であり、大型建設の石材に適していた。
江戸城建設に「鎌倉石」がどれほど役立ったのか、「腑に落ちない」理由のひとつはそこに発する。

しかしもっとも「腑に落ちない」点は、「鎌倉河岸」の地名発祥を両者とも家康江戸築城期と明記するにもかかわらず、確かな根拠を示し得ていないところにある。

鎌倉河岸の旧地は現在の千代田区内神田一丁目の一部である。
鎌倉橋の上流約230メートル、神田橋あたりをオリジンとした神田は江戸の「本家下町」で、一定規模以上の集落地神田エリアが「家康以前」から存在したことは、発掘報告書『一ツ橋二丁目遺跡』(1998年)にも明らかである。

江戸が鎌倉ともっとも強い絆で結ばれていたのは太田道灌の江戸築城以降、鎌倉扇ガ谷に本拠をおいた関東管領一族の上杉氏が健在だった時代である。
扇谷上杉家臣太田道灌は中世東国の都鎌倉に生まれ、鎌倉五山に学び、江戸に城を築いて後も本拠地は鎌倉にあった。
鎌倉には太田道灌の邸跡と称するところが残され、その墓すら存在する。

近世までは水運が物資輸送の基本だったことを勘案すると、鎌倉河岸地名の発祥は中世の江戸、日比谷入江最奥部に臨むのこの地にこそ相応しい。
ちなみに関東の一郷邑江戸にとってもっとも重要であった「上位の場所」は、上方・西国を除けば、古代においては武蔵国府(府中)、中世前半分は鎌倉、その後半期になれば小田原で、水陸のミチは各々の時期、まずもってその間を繋結するものであった。江戸城桜田門は、家康入府当時まで小田原門と呼ばれていたのである。

江戸鎌倉河岸が中世に遡る蓋然性については以上の通りである。

そうして鎌倉河岸地名起源に関する文献らしきものとして、『風俗画報』臨時増刊203号新撰東京名所図会神田区之部下巻之一(1900年〈明治33〉1月)の「鎌倉町は徳川氏築城の時鎌倉より取り寄せし石材を此の河岸より陸揚げせしをもって名くといふ。当時已に水路ありしことは長禄並に慶長七年古図に就て徴すべし」以外を見出すことができないのである。

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