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鳥籠の中に鳥飛ぶ青葉かな

『疾走する俳句 白泉句集を読む』(中村裕)は掲句を「昭和一八年頃」とす。方やインターネット「増殖する俳句歳時記」にて清水哲男「この句は敗戦後3年目の作品」と断定せり。その差5年の真中に敗戦てふ径庭抱へたれば、前後にて「解釈」大いに異なれり。「増殖俳句歳時記」の表記また「鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな」と異相なり。

清水この句をば「戦後民主主義批判の句である」とし、「主権在民男女平等などは、しょせん篭の鳥のなかで飛ぶ鳥くらいの自由平等」と断じ、転じて俳人のよく使へる「一句屹立」を批判「白泉の仕込んだワサビは、もはや誰にも効かなくなった」と結ぶ(April 30,2001)。

然なるか、否、これ清水の大いなる軽佻ネット拡散にほかならず。文末に「『昭和俳句選集』(1977)所載」とあらばそを根拠とするものならん。高柳重信編なる当書「昭和五年」より同「五一年」までの編年俳句アンソロジーにて、当該句「昭和二三年」の項に配せるも、其の年に作句せる保証あらず。何故となれば、白泉逮捕1940(昭和15)年5月3日にて句作発表禁じられし故、それ以降の作期と「発表」時期異なればなり。

白泉自身の編なる『渡辺白泉句集』(自筆稿本)には当該句「散紅葉 自昭和一六年至昭和二〇年」に収録せり。すなはち敗戦以前の作なり。方や『渡邊白泉全句集』中「初出発表順句集」には「昭和二三年」の項に収録せり。「作」と「初出」とは異なれり。小輩初出誌まで調べる能はず。いずれにても当該句逮捕五月を回顧したる句に他ならずと断ず。「飛ぶ」は心なり。

然しながら如何なる生も生あるかぎり己の籠ぬけること能はず。これ自我の牢獄と言ふ。外界は眼に染む青葉なれどおのれはおのれの獄に羈(つな)がれたり。

【評林・白泉抄20】

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