Archive for 6月, 2021

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怪しい地図記号 その2

1909年つまり明治期の終り近くからある間隔をおいて大都市部に作成された、1万分の1地形図のシリーズがある。20世紀末のバブル期以降は作成されなくなった地形図群だが、日本列島都市部約100年の変遷を詳細に語るきわめて貴重な地図資料である。
以下はそのなかの1枚、1909年(M42)測図東京近傍19面のうち「中野」図幅の青梅街道中野本郷付近である。

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中央を東西に走るのはもちろん青梅街道で、図の上辺には桃園川の谷が水田化されているのがわかる。
中央やや西寄りに宝仙寺がみえ、また図の東寄りに「宝仙寺三重塔」として知られる江戸時代初期に建設された塔(戦災で焼失)が記載されているが、これについては後に触れるとして、ここで指摘しておくべきは宝仙寺の境内に描かれた丸印は、中野町の町役場であるということに関してである。

右下の「本郷」や左上の「仲町」という字が示す通りここは中野の中心地で、江戸時代には高札場も置かれていた。当然ながら明治期には、町役場から青梅街道をへだてた南側に、郵便局も設置されたのである。
この図では丸の中に〒の地図記号が見えるが、前述『地図記号のうつりかわり』によれば、「明治42年式」では丸に〒は「郵便電信(電話)を兼る局」の記号という。

1888年(M21)の輯製二十万分一図「東京」図では、丸に一本棒の中野の郵便局記号は青梅街道の北側に付されているが、そこは道路ではなく集落記号の「宿駅市街」(「(人口)一千(人)以上」)で閉塞されているから、道の北も南もなくともかくも「このあたりに郵便局あり」の表示なのである。

さて、肝心の「怪しい地図記号」であるが次の図をご覧いただきたい。

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この図は上掲図の北に接続する「新井」図幅の一部である。
ここでは東西に走行するのは青梅街道ではなく中央線(甲武鉄道は1906年(M39)に国有化)で、鉄道線路の白黒だんだら記号は真ん中に細線入りだから、もう複線化されている。

地形図では真っ先に地形のことに触れておきたいので言うのだが、図の右端、鉄道線の北側に見えるのは桃園川の支谷である谷戸川の谷頭部で、「田」の記号につづいて「濶葉樹林」が描かれ、谷最先端の窪地は中野停車場の北まで伸びている。また図の右下は桃園川本谷、左下は別の支谷で、それぞれ「田」記号が付されている。

さて、中野停車場北からその西側にかけての一帯長方形の区画内に、「電信隊営」と「気球隊営」の文字が並んでいる。「気球隊営」の左下に「圍」(かこい)の文字があるが、これは江戸時代17世紀末から18世紀はじめにかけて存在した「中野犬小屋」地区の記憶をとどめたもので、現在中野サンプラザから中野区役所、そして明治大学と帝京大学の中野キャンパスが広がる一画は広大な「御囲」ないし「御犬囲」だったのである。

ここで問題にしたいのはそれぞれの「隊営」文字の頭に掲げられた「へ」の字の旗で、これは陸軍兵営を表している(「明治24年式」から「昭和17年式」まで共通)。
ところがこの「へ」は、それ以前は少しひしゃげた「М」ないし山形が二つ並んだ形で(「仮製図式」)、さらにその前は山形が三つ並ぶ旗(「迅速図式」)だった。それを時系列的に並べれば以下の通りとなる。

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初期の複雑型から省略型に向かった、記号シンプル・エボリューションの典型である。
この記号の場合、「へ」の形は「陸地」ないしそのシンボルとしての「山」を表したものと見ることができる。

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怪しい地図記号 その1

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上掲は陸地測量部の地図に実際に使用されている地図記号だが、これまで誰も触れたことがない。
「建設省国土地理院監修」と銘打った『地図記号のうつりかわり ー地形図図式・記号の変遷ー』(編集発行日本地図センター)が刊行されたのは1994年の春(年度末)で、それは旧日本陸軍(陸測)・現地理院系の地図記号を図式年度別に網羅した労作(索引がないのが残念)だが、そこにも見当たらないのである。

古い地形図の類を丹念に見ていくと、上掲にかぎらず旧陸測図にも今日知られざる地図記号が時々見つかることがある。

さてこの地図記号、上部の角が昆虫の触角めいて「仮面ライダー」の顔を想起させ怪しい雰囲気であるが、その正体や如何に。
この記号の出典は下の図であるが、どこにあるか多分すぐお分かりと思う。

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輯製二十万分一図「東京」(1906:M39修正)図の一部

「輯製二十万分一図」は旧陸軍の陸地測量部が日本列島全域をはじめて地図にしたもので正式測量以前であるからかなりラフな内容を特徴とするが、そのうち首都圏部分は二万分一の迅速測図をもととしているため例外的に描図が精細である。
この図でも細かいケバ方式により、段丘面の開析谷やその谷壁がよく示されているのを見ることができる。図の左下(南西)から図をほぼ二分するように北上し、上端で妙正寺川と合流(落合)するのは神田川である。
内藤新宿で分岐するのは甲州街道と青梅街道。甲州街道は玉川上水が沿う尾根道で、方や青梅街道からは五日市街道が分岐しているのがよくわかる。

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輯製二十万分一図「東京」(1888:M21輯製)図の一部

上図の18年前である。
五日市街道はこの図では一条線の「里道」記号で描かれているが上図では二条線の「県道」であるから、この間に「昇格」したらしい。ちなみに青梅街道も二条線の県道、それに対して甲州街道は二条線の片側が太い「国道」であるのは変わらない。
一方、鉄道は1885年に開業した日本鉄道の品川―赤羽間支線(現山手線の一部)は見えるものの、甲武鉄道(中央線)はまだ描かれない。甲武鉄道新宿―立川間の開業は1889年(M21)だから、この図の翌年である。
たとえば青梅街道北の桃園川の谷を念頭に両図を見比べると、鉄道が描かれることによって地形表現がどれほど駆逐されたかがわかるだろう。
怪しい地図記号も存在しないけれども、桃園川谷と青梅街道(尾根道)の間、「中野」の「中」の文字の右下に、下掲のような地図記号が記入されている(上図では鉄道記入のためか、この記号が存在することは確かだが一部消えかかって明瞭ではない)。

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これは怪しいと言っても正体は明示されていて、『地図記号のうつりかわり ー地形図図式・記号の変遷ー』では「郵便局」とし、その註に「郵便運送馬車や郵便収集車の旗の図案」と書いてある。しかしそうだとしても旗の図が何故このような「ひとつ串団子」なのかわからない。
ネット情報によると、この記号はそもそも白地に赤の太い横線を伴った大きな丸で、郵便配達員の制服や制帽、旗に用いられたものらしい。左右赤帯付の日の丸とは、日本列島右行き左行き(右往左往)ということなのか、結果として1884(M17)年の太政官布告により、これが正式に「郵便徽章」と定められた。
お役所徽章が地図記号と相成ったのだが、「明治24年式」からは一目で理解できる角封筒のマーク(✉)に変えられたのである。折角の改正であったものが、「明治42年式」にこれまた理解不能の〒マークに変えられて現在に至る。

「2020オリンピック」を契機に、この日本列島ひとりよがり記号〒を✉に変えようとする動きもあったが、それもうやむやとなった。現代にひきつがれたひとりよがり地図記号はこのほかにいくつも挙げらる。インターネットサイト「意味不明!覚えにくすぎる「地図記号」、どうしてこうなった!?」などで指摘されているのがその代表例だろう。
非常口マークを代表とする屋内外のサインやシンボル、ロゴマークと異なり、地図記号はかつては旧軍が、現在は役所が「告示」するものであるため合理性の検討に欠け、逆にそれを伝統として誇るような傾きをもつのである。古い地図記号のいくつかは、サインデザインの専門家や市民のパブリックコメントの点検を経て、生まれ変わる必要がある。

さて郵便がなぜ〒なのかといえば、それは1887年の逓信省告示で「本省全般の徽章」とされたからという。これまたお役所徽章であるが、その由来については逓信省の「テ」からという説ほかいくつかあって、確定していない。逓信省は郵便のみならず電信、電話ほか交通通信全般を管轄していた、いわば大お役所であった。

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