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避難区域

日本地理学会の秋季大会が福島大学で催されたのを機に、倉庫兼物置(おなじようなものか。いずれにしても元は村の保育所でトイレはポットン式。寝室3部屋ベッド6台、だだっ広い舞台兼お遊戯室も付いているけど、「別荘」とは言えないなー)のある川内村で2泊、福島市に3泊して、「帰還困難区域」(立入禁止区域)や「居住制限区域」(夜間立入禁止区域)、「避難指示解除準備区域」をまわってきたということがあったからですが、何の「区域」設定もない福島市内で今なおびっくりするような高線量の場所があり、また市内南部の高台の新興住宅地も高線量のため櫛の歯が欠けたように人がいなくなっているのを実際に見聞きすると、当然ながらトーキョーでの知見とは大きく違った印象があるのでした。
その印象のひとつのピークは、道端やらもとの水田、場合によっては尾根付近の平らな草地だったところに、青ないし黒の「トンパック」と称するらしい、除染土や刈った草木の類を入れた巨大な袋が場所をうずめるように積まれている光景。しかもすこし目を凝らすと、青芝色の広大なカーペットのようなものでその辺一帯がカモフラージュされている。つまりは汚染土袋の膨大な野積みは、実はいちめんに存在していることが了解できる。それは、言ってみれば上半身の真皮を剥いだうえに蛍光肌色塗料を盛ったような、グロテスクな「地表オブジェ」の観があるのでした。

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それにしても除染作業が完了した場所はきわめて少ない。福島県相馬郡飯舘(いいたて)村の場合、本来4000人の作業員が1年で終える予定のところ、実際は300人。それが完全に終わるのはこの先何十年かかるかわからない、といいます。つまり除染といっても、建物の外部と庭先しかできないから、山林や川辺は高線量のまま。そこからまた放射性物質は徐々に転移してくる。一帯が高線量の場所での除染はほとんど意味がない。自衛隊が何百人かで徹底除染をすると「外は若干下がるとしても、室内はなかなか下がらない」ともいいます。ナントカ規制庁の「想定」のように、家の中は屋外の半分などということは、高線量地区ではそもそもあり得ない。
しかし、原発から30キロ圏内にほぼおさまる川内村は、奇跡的に低線量の村。それはただただ、2号機の爆発によって放射性物質が一挙に放出され、上空を放射性プルームとして漂っていた2011年3月15日の午後の、風向きと降雨(夜は雪に変わった。放射性物質は地上に湿性沈着する)という偶然性によるのであって、だから、北西60キロ圏内の飯舘村は、村の大部分が居住制限区域か帰還困難区域のいずれかに含まれるという、南西側の川内村とは対照的な光景が出現したのです。
その川内村も、線量計(ウクライナのエコテスト社製「テラ」)をスイッチ・オンにして歩いてみれば、人家の切れた林道めいたところに入るとアラーム設定毎時0.3マイクロシーベルトをすぐ超えて、ピーピーとやたらうるさい。うるさいといえば、村では移動に皆自動車を使うから歩く人自体が珍しく、かつては犬によく吠えられたもの。「帰村宣言」で3割以上は人が戻ってきたとは言え、全村避難していた村に、いまでは犬の存在自体が希薄となりました。
一方、山野ではなく拙宅庭先のアスファルト駐車場でも、すこし窪んだところには雨水が溜まって、乾いたときは黒く縮れたような異様な土が出現するのですが、それは計測すると毎時0.4マイクロシーベルトを容易に超える「典型的な高線量土」なのでした。

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しかし、見聞でもっとも強く脳裏に残っているのは、飯舘村の元村役場職員であった方のお話。3月25日には長崎大学の大村先生が来て、村では400人が集まったと。現在なお空間線量の高い村で、当時は比較にならない数値が出ていたのに、先生のお話は「安全安心」。子どもたちが外で遊んでもよいし、洗濯物も干せる、普通の生活ができる、というもので、村民は皆唖然とした由。4月10日には近畿大の杉浦教授が来て、1200人が集まったが、それも同じ「安全講話」。子どもも大人も呆れかえってしまって、政府指示「屋内待機」のまま動こうとしない役場を尻目に、子どものいる家からどんどん自主避難が始まったと。最後は「原子炉の内部がどうなっているか、誰もわからない状態なのに収束宣言やコントロール宣言は無責任で、地元にとってはむごい話です」と付け加えたのでした。

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