(「夢のあとに」G・フォーレ、1878)

季刊『宙』(そら)誌第60号(2021年10月)から最終号の67号(2023年7月)まで2年足らずであったが、毎回つまり計8回寄稿した文学絡みの拙文の、初回と最後は追悼だった。
2021年7月4日に72歳で逝ったシンガーソングライターの中山ラビ、そして2023年3月28日が享年83の命日となった俳人にして編集者の齋藤愼爾の2人を悼んだのだが、『宙』の主宰者中川肇氏をそこに加えざるを得ないとは、アイロニーの極みのように思われる。『宙』は67号が「最終号」となった。この文は、刊行されざる、幻の『宙』第68号掲載追悼として認めるものである。

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中川氏との出会いは、国分寺駅北口の古い名曲喫茶「でんえん」であった。そこに『宙』(多分第59号だったろう)が何冊か置いてあったのを手にした。中味はともあれ、表紙に「短詩の試み」とあり、B6サイズの端正なたたずまいに惹かれ、裏表紙の連絡先に電話したのである。俳句も短歌も詩の一種で「短詩」にほかならないとは、私の長年の主張だからである。連絡の結果は、第60号の編集後記(中川氏執筆)にあるように、私がいわばゲットされた形で毎回の寄稿、そのうち彼があちこちで主宰している句会のひとつに顔をだすようになった。

句会は、お目にかかるたびに慫慂されたのに根負けしたというよりも、新宿ゴールデン街の一角で14年間つづけてきた句会らしきもの以外も覗いてみようという気になったのである。いわゆる俳句界つまり結社や宗匠俳句につながるものはまっぴら御免を蒙ってきたのだが、無手勝流ばかりにもちょうど飽きてきたところであった。また感染症の蔓延で人とのリアルな接触の場が閉ざされ、隔靴搔痒の液晶画面ばかりに嫌気がさしてきたところでもあった。

中川氏はインターネットに不案内であったことと自宅の「ギャラリー」および気ごころの知れた2、3の店があったために、リアル句会を閉ざすことはなかったのである。私がそこに出るようになった後だが、中川氏は「芳賀さんが参加するとは思わなかった」と漏らしたことがあった。たしかに場違いな嫌いもあったが、それも勉強であった。

飽きてきたといえば、飲みはじめれば記憶がなくなるまでが流儀の酒癖にも嫌気がさし、新型コロナ感染症蔓延を機に断酒を実行してちょうど2年目であった。ビールや日本酒が常に傍らにある中川氏主宰の句会だったが、逆にすんなり加わることができた。酒で気分を高揚できるのもたしかに快感で、ひとつの文化ないし習俗にほかならないが、自己のステージ離陸を確認するのもまた別の快感である。酒を断ったという事実とそれを公言できることは悦びである。飲食費は均等割りだったから中川氏は私の支払い分を気にしていたが、お茶で通せたのは幸いであった。いずれにしても、1年足らずではあったものの、中川氏の句会で学んだことは少なくなかった。中川氏の選句は確かで、評はするどいものがあった。

しかし何よりも有難かったのは、私がその時々の思いを文章で書き送れば、氏は即座にその意義を認め、掲載してくれたことである。古希を過ぎ時にネットのブログで嘯くのみであったが、身近にいわば無鑑査の思考と発表の場を見つけられたのは大きかった。それを提供してくれた中川氏には感謝するほかない。しかしご縁には、地縁以上のものがあった。中川氏は「わが神はバッハとクレー盆の月」と詠んだが、クレーはいざ知らず、バッハが神であるとは、何十年ぶりかでそれを再確認したからである。

中川肇氏は昨年7月にすい臓がんのステージ4が発見され、以来自宅で従来通りの生活を送ってこられたが、この6月26日の午後2時に他界された。享年86であった。

氏は戦中1937年の丑年は5月5日生まれで、敗戦時はものごころのつく学齢期の8歳。香川の母親の実家に疎開、シベリア抑留帰りの父親を迎え中学一年生で東京に戻っても、なおひもじさと同居した世代である。当方はちょうど一まわり下の丑年。遠い日々、貧しくはあったが、とくにひもじさに苦しんだ記憶は、幸いにしてない。しかし実社会に出たのは共に東京の小さな出版社の社員としてであった。とりわけ中川氏の最初の勤め先が弥生書房で、そこの先輩社員と結ばれたと聞いて、感深いものがあった。弥生書房という名前と、その文字が印刷された白いハードカバーの俤は、今も眼前に髣髴とする。私が小6か中学生だったときの本である。それは学生となって上京するときに実家に残し、以来目にすることはなかった、多分最初に買った名詩集なのである。

弥生書房を紹介したのは、法政大学の中川氏の恩師藤原定先生で、結婚式の仲人もされたという。氏の第一詩集『ゆめのかたち』(1964年3月)の解題(『隠沼』2020年5月。P.46)に、「(略)24歳の3月塚田孝子と知り合い、いろいろあって、25歳の3月結婚。この「いろいろ」が、ほぼこの詩集の内容となっている」と書かれているが、その「いろいろ」の穿鑿は差措いて、作品の初々しさには目を瞠らざるを得ない。人の一生のある時期に、このような「ゆめ」が夢見られ、その「かたち」が言葉として遺されたのである。

「リルケ全集」の出版で知られた弥生書房の創業者津曲篤子氏は『夢よ消えないで ―女社長出版奮闘記』(1996年)を執筆上梓したが、その内容をかいつまめば「京都で求道に生きようとする夫と6歳の娘を残し、無一文で本郷に弥生書房を興してから40年。女社長の奮闘と、小林秀雄、渡辺一夫、草野心平らとの心暖まる交流を綴る」である。

中川夫人孝子氏は、津曲氏が親しい出版社の社長から金を融通してもらい、何度か手形が落ちる前に銀行に走ったという。「まだ二十歳そこそこの女の子が大金を持っているとは誰も考えなかったろうから」というのである。肇氏も「当時の弥生書房は、自転車操業で返品の山。でも本当にいい本を出していた。「リルケ全集」をはじめ「世界の詩」シリーズなど」と書いているが(宙増刊号『中川肇写真詩集』2023年5月 P.24)、少年の私が最初に買った詩集は、間違いなくその「世界の詩」シリーズ(全70巻)の1冊なのである。しかし孝子氏はまもなくして弥生書房を退社、中川氏も小学校用教科書や副読本などの版元である光文書院に職を転じ、そこで定年を迎えることになる。

2人の娘と1人の息子、そして5人の孫に恵まれた中川夫妻であったが、肇氏は棺を蓋うまでに別の「いろいろ」の軌跡をたどったとみられる。「ぼくは 動き回ることが/大好きで/じっとしていられない(1行アキ)そこで ときどき/しっぽで 足を/固く固くしばるのです」(「自戒ねこ」(写真詩集 頌Ⅴ『かけがえのない』2001年)と言いながら、その尻尾が機能した様子は見えなかった。詩作は言うに及ばず、写真は師匠について自宅の一階をギャラリーにしてしまうまで入れ込んだし、自分の詩集どころか写真集も何冊も上梓。テニスもマラソンも、そしてカラオケも人並み以上。すい臓がんの告知を受けてなお酒を絶やさず、その交友はおどろくほど広範囲にわたっていた。カラオケといえば、氏の誘いでこの2月9日の午後、拝島の「いちご」まで出かけ、中川氏と私は10曲ずつを競い、合計20曲、夕刻までの時間を共にしたのである。

お連れ合いの孝子氏に金婚の祝いを提案して、「4年間の家出」を理由に一蹴されたとは肇氏本人から直接聞いた話である。「なにせ言い出したら聞かない人で、気持ちはすべて外を向いていた」とは、枕花を届けに行ったときに孝子氏が私に語った言葉である。お二人の最後の会話は「もうどこにも行かないね」「うん(行かない)」だったとも。
氏の不羈奔放と「好き嫌いが激しい」「人たらし」(『中川肇写真詩集』p.18,62)はたしかに天性のものであったろう。しかしそれは24から25歳の間の「ゆめ」、つまり故人より些か年長の(旧姓)塚田孝子というバックヤードに担保された果報でもあったのである。

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